●時代区分

本州 北海道 呼称
縄文文化 縄文文化
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続縄文文化
弥生文化
古墳文化
奈良時代 擦文文化 オホーツク文化 エミシ
平安時代
鎌倉時代

形成期アイヌ文化


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近世アイヌ文化
エゾ
南北朝時代
室町時代
戦国時代 アイヌ
安土桃山時代
江戸時代
近現代 北海道


●呼称
エミシ→古代の日本の国家が東北地方から北海道にかけて住む人々を指した。
 7世紀まで「毛人」⇒7世紀末「蝦夷」
エゾ→東北のエミシが消えていくと共に登場
 中世「夷」⇒近世「蝦夷」⇒幕末「土人」⇒明治から1997年「旧土人」
アイヌ→カムイ(神)に対して人間の意。18世紀末以降から。

  ■まとめ:日本側【エミシ(古代)/エゾ(中世以降)】/アイヌ自身【アイヌ】⇒どの呼称も同じ人々を指す


●アイヌとの戦争
・奈良時代(780年):伊治呰麻呂[これはりのあざまろ]の乱(宝亀の乱)

・8.9世紀初頭:阿弖流為[アテルイ]の反乱→征夷大将軍:坂上田村麻呂に対して反乱

・878年:元慶の乱→夷俘による反乱。(苛政に対して出羽国の夷俘が蜂起して秋田城を襲った。)

・1051〜62年:前九年合戦→安倍氏を滅ぼし清原氏が東北の覇者に

・1083〜87年:後三年合戦→清原氏を滅ぼし藤原清衡が東北を支配。

・1457年:コシャマインの乱→コシャマイン:アイヌの首長

・1669年:シャクシャインの乱→シャクシャイン:アイヌの首長

・1789年:クナシリ・メナシの戦い


●日本と蝦夷の境界
畿内の王権にまつろわぬ住人をエミシとする→戦争により圧迫

・倭国の時代(6世紀〜7世紀前期):「国造(くにのみやつこ)」が存在するところまで→東北・新潟南部まで

・9世紀初頭:「国・郡」が存在する所まで→秋田・盛岡・宮古を結ぶまで北上

・鎌倉時代初頭:本州北端まで


●蝦夷
・鎌倉・室町:本州人が夷島にわたる→原和人地=松前

・江戸時代初頭:松前まで(日本地)

・18世紀:ロシアに対抗するため幕府がアイヌ民族を国民化

・明治時代:1869年、北海道の成立

蝦夷の消滅


●境界的な人々
11世紀:「俘囚の長」→安倍氏(エミシ系の豪族)
 「俘囚」・・・8世紀以降、律令国家に服従したエミシ。諸国に移住。平泉・藤原氏。
 「夷俘」・・・8世紀半ばに服従したエミシ。在地にそのまま存続。伊治呰麻呂。

中世:「渡党」:津軽海峡を渡り、渡島地方に住み着いた人々。日本人である一方、アイヌ文化的な要素。

幕末から近現代:「土人」「旧土人」 ※土人・・・土地の人(差別的なニュアンスは乏しい)


●エミシからエゾへ
・紀元前400年頃:弥生時代→水田稲作が列島に広まり定着
⇒しかし津軽海峡は越えないので、続縄文時代(ソバ・ヒエなどの雑穀栽培/サケ・マスの河川漁猟)

・660年:阿倍比羅夫の遠征→粛慎(エミシとは区別された、オホーツク文化を担った人々)を討つ

・擦文文化の様相(6・7〜12・13世紀)
擦文土器・・・刷毛目様の擦痕がある土器。オホーツク沿岸を除く北海道・東北北部

・大陸系のオホーツク文化
流水の来る地域に重なり、大陸系の製品が数多く出土。カラフトの方面から北海道へ南下してきた人々で形成。
アイヌ文化の形成に大きな影響。イオマンテ(熊送り)を中心とした信仰儀礼体系。


●境界権力の成立(安倍・清原・藤原)
前九年合戦・・・安倍氏滅亡

清原氏が支配

後三年合戦・・・清原氏滅亡・源義家介入

藤原氏が支配
 ・藤原清衡(初代)・・・中尊寺建立
  ↓
 ・2代 基衡・・・毛越寺建立
  ↓
 ・3代 秀衡・・・無量光院建立
上記三人で藤原三代と呼ばれる。東北地方全体の支配者へ。
  ↓
 ・4代 泰衡・・・源頼朝の攻撃で藤原氏滅亡(弟、義経も自害)

※前九年・後三年合戦で使用された武器は弓矢防御性集落があることから


●安藤氏と北方交易
安藤氏・・・津軽十三湊に本拠を置き安倍氏の流れを汲む
 ・海の武士団的な性格を持つ
 ・海の交易ネットワークを北東北に張り巡らし北海道南部にまで及んでいた。
 ・日の本将軍を自称→「日本国」とは違うもう一つの東の地域、「日の本」の自立
  ↓
 南北朝以後:南部氏に津軽を追われる

・蝦夷島への影響
 ・安藤氏の登場・・・北海道・東北北部の擦文文化の終焉→アイヌ文化の形成
 ・13世紀(中国では元の時代)・・・擦文文化の担い手が、オホーツク文化を消滅→サハリンに進出、安藤氏の交易活動に対応
  ↓
 ・明の時代・・・明はサハリンのアイヌを支配下におく


●蝦夷地
室町:蝦夷が島に日の本・唐子・渡党の3類が群居
 ・日の本・・・蝦夷島の東方=道東・千島方面の人々
 ・唐子=唐(中国)に通じた道光・樺太方面の人々
 ・渡党=道南の住民


●コシャマインの戦い
1457年:コシャマインが蜂起
背景→津軽海峡を挟む地域における安藤氏と南部氏の争い
  ↓
南部氏の圧迫を受ける安藤氏が渡島半島南部を新たな根拠地にしようとする
  ↓
エゾの地域社会に政治的動揺・対立を招く
  ↓
コシャマインらの在地アイヌ勢力が蜂起


●松前氏
松前氏の系譜→武田信弘を祖とする⇒蠣崎と改姓
蠣崎慶弘の代に松前に改姓⇒つまり武田→蠣崎→松前


●秀吉政権と蠣崎氏
1590年:秀吉は小田原の北条氏を滅ぼす
 ↓
奥州仕置に乗り出す
 ↓
松前の蠣崎慶弘は秀吉から京都上洛の命を受ける
 ↓
秀吉は渡島半島南部の実質的な支配者が蠣崎氏であることを認知(大名として認められる)


●江戸幕府と蠣崎氏
外交体制:1630年代の鎖国制によって制度的に作られる
 4つの窓口
  ・エゾへの窓口としての松前藩
  ・朝鮮への窓口としての対馬藩
  ・琉球への窓口としての薩摩藩
    →大名が幕府の委任を受けて管理

  ・オランダ・中国への窓口としての長崎

蝦夷島(松前/蝦夷地)
1633年:幕府巡見使の松前派遣によって確認
アイヌの巡見使へのウィマム(御目見)が始まる。

●シャクシャインの戦い
従来の交易形態:島内のアイヌが待つ前に船でやってきて行われていた
 ↓
商場知行制
松前藩は藩主一族や上級家臣に対して蝦夷地の特定の場所を分け与えた→商場
 ↓
家臣は商場(コタンにある)に行ってアイヌと交易

影響:アイヌは交易の自由度が奪われる/物々交換の比率はアイヌ側に不利になる

1669年:シャクシャインの戦い→シャモ襲撃は道央部を中心に広い範囲に展開(全民放的な蜂起)
 ↓
松前藩の鎮圧隊と膠着状態に
 ↓
松前藩の和睦の呼びかけに応じるもだまし討ちにあい敗北
 ↓
商場知行制(という名のアイヌ交易の収奪システム)が蝦夷地全域に貫徹


●アイヌの社会と生活文化
・乙名とコタン、地域集団
1660年代のアイヌ社会、コタン乙名と呼ばれる有力アイヌがいる
 ・アイヌ民族はひとまとまりの政治集団・社会集団とはならない
 ・おおむね共通する言語・習俗・文化を持つことによる同族意識がゆるやかに存在

・アイヌの生活文化
 動物の礼を基の神の国へ送り出す動物送りの儀礼が発達→イオマンテ(熊送り)
 狩猟・漁猟が中心であるが雑穀栽培が行われていた
 容姿 男:ひげを長く伸ばし耳飾
     女:くちびるの周りや手の甲に入れ墨
  →民族固有の身体風俗


●修学旅行
・最初に見学した旭山動物園のある都市:旭川
・最初に宿泊した北広島の地名の由来:広島出身の人が開拓したため
・クラーク博士が残した有名な言葉:少年よ大志を抱け
・北海道庁所在地である道内最大の都市:札幌
・北のウォール街と呼ばれた運河で有名な日本海側の都市名:小樽
・ニセコパークホテルがある倶知安町の「倶知安」の読み方:くっちゃん
・洞爺湖周辺の火山活動で昭和戦前期に突如出現した山:昭和新山
・3日目に宿泊した温泉で有名な都市:登別
・4日目に行った白老ポロトコタンの「ポロトコタン」の意味:大きい湖の村
・白老ポロトコタンでみたアイヌ古代舞踊の中で使われた口を使って演奏する楽器:ムックリ


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